2 ウパニシャド哲学

さて,ではウパニシャド哲学はドンナコトを言ってんだろねえ?


何よりもマズは「輪廻転生」.全ての生きとし生けるモノは,生と死を永遠に繰り返す.死んだら,またドコカでナニかに生まれ変わる.生まれ,生き,死に,そしてまた生まれ変わる.永遠に回転し続ける車輪のよーなモノ.
で,ココは忘れちゃイケナイんだけど,死んでも生まれ変わることを,インド人は「苦」と捉えた.死ぬのが苦しみなのはモチロンだけど,生まれるコト,生きているコトも苦しみなの.飢饉・疫病・戦乱・天災…あらゆる不幸が人生には付いて回る.生きることは苦痛とセットなワケだ.


そもそもインドでは現代でさえ,生まれついたカーストによっては物凄くツラい人生が待っているワケで,「次に生まれ変わってもまたキミと一緒に…」なんてセリフとは無縁絶縁,絶対生まれ変わりたくなんかナイの.ソレがインド人(大雑把)の人生観.
で,死んだ後で次に何に生まれ変わるかということなんだが,コレは生きている間にどんな行いをしたかで決まる.生きている=何らかの行為をしているワケだが,その行為を「業(ごう)」という.どんな「業」を積んだかによって,次の生が決定される.簡単に言えば悪い業を積めば,虫けらに生まれ変わるカモシレナイ.よい業を積めばマシな生き物,人間に生まれ変われるんだな,人間とか.
でも人間に生まれたとしても,やっぱり人生は苦しいワケで,人々の願いは二度と生まれ変わらずに済むコト.クルクルと回り続ける輪廻の輪から抜け出すコト.ソレが最高の願いなのヨ.そーやって抜け出すことを「解脱(げだつ)」という.
「輪廻転生」「業」「解脱」.この辺のコトバは聞いたコトがあるけれど,仏教以前に存在したコトバだったんだねえ.シミジミ.


さて,次は宇宙の真理について.ウパニシャド哲学は,宇宙の根本真理や根本原理が存在すると考える.これを「ブラフマン」という.中国で漢訳すると,「梵(ぼん)」.
で,当然修行者たちはこの真理「ブラフマン」を自分のものにしたい,掴んでやりたいと思うワケね.
ユダヤ教キリスト教ではこの真理は「神」,プラトンなら「イデア」ってトコロだろーけど,いずれにせよ神やイデアは遙か遠い彼方にあって,人間はソレに向かっていく,少しでも近づいていく,とまあそんなふうに考えた.よーするに真理は自分の外のどこかにある,と.
トコロガドスコイ(違,ウパニシャド哲学はチョット違う.宇宙の根本真理「ブラフマン」.しかーし,考えてみれば「私」も宇宙の中の一部なんである.宇宙に根本原理があるとすれば,「私」の中にも宇宙の根本原理が宿っているハズだってワケよ.ドコか遠いトコに真理があるんじゃなく,自分の中にある.んで,この「私」の中の真理を「アートマン」という.「個人の根本原理」とでも言うべか.漢訳では「我(が)」.私の中に「アートマン」=「我」がり,それが「ブラフマン」=「梵」と究極的には同じモノだ,とゆーのがウパニシャド哲学.コレを「梵我一如(ぼんがいちにょ)」という.コレもまた仏教以前のコトバだったのだ.ほえー.


で,誰もが自分の中にアートマンを持っているワケなんであるが,簡単にはソレを自覚するコトがデキナイ.ナゼかとゆーと,物質や欲望によって心が曇っているから.あうー.だから何らかの修行によって心の曇りを取り払い,自分の中の「アートマン」を見つけ出そうとする.んで,見つけたらどーなるんだとゆーと,ソレは「ブラフマン」と同じなんだから,二つは一体化する.一体であることを「私」が理解する.「私」が「宇宙」と一体化するってコトは,言い方を変えると「自分が消える」ってこったね.
自分が消える,とゆーコトはすなわち「業」も無くなるってコトである.自分が宇宙と一つになるんだから,私の行為なんてのも消えちゃうワケ.「業」が消えたらどーなるか.輪廻転生の原因は「業」なんだから,「私」が消えて「業」が消えたら,ソコには輪廻するものがなくなっちゃうよネ.コレが解脱.究極目標.どどーん.


さて,それじゃどーすれば心の曇りを取り払って,「アートマン」を自覚デキるのかってトコロになると,色々な人が色々な方法を唱える.仏教もその方法の一つなら,ヨーガもそう.アレは本来,身体と精神を極限まで追い詰めるタメのモノ.そーやって欲望とか脂肪とか余分なものを捨て去ったその後に残る最後のモノ…「アートマン」…を捉まえてやろう,ってワケ.


長いな,今日は.明日はその後出てきた,身分制度を否定する宗教,ジャイナ教のハナシをしまっす.よろぽこ.