仏教:諸行無常

前回(id:KEN_NAITO:20050608)は,「縁起」のヲハナシだったネ.「世の中のモノゴトは全て何らかの原因によって生じたモノであり,その原因が滅すれば,その存在も滅する」と.とゆーコトはつまり…


「全てのモノゴトは必ず滅ぶ」


ワレワレが認識し得るモノゴトに「変わらないモノは一切ナイ」,すなわち「無常」とゆーわけである.


ブッダは言う.地面の土.コレを一握り手にとってみる.この一握りの土も,土として存在していられる条件が滅してしまえば,土ではなくなってしまうだろう.が,喩えこの手に取った土が消えても,私には何の苦しみも起こらナイ.ソレがしかし,自分のコトとなると,どーかな?自分が滅ぶ,つまり死ぬってコトだが,自分の死を考えるとヒトには苦しみの感情が起こる.土も自分も「無常」であることに違いはナイのに,全く違う感情を持ってしまうのは,どーしたこっちゃ?と.「無常」と「苦」との間には,人間の心の作用に関する事柄が密接に関わってんじゃないのか?ってネ.

「ああ短いかな,人の命よ.百歳に達せずして死す.たといそれより長く生きたとしても,また老衰のために死ぬ.」


ブッダは言う.人間には三つの「感受」がある.「楽受(快の感情)」「苦受(不快の感情)」,そして「非苦非楽受(快でも不快でもない感情)」.しかし,ブッダはこの三つが全て,「楽受」も「非苦非楽受」も,コトゴトく「苦」に帰してしまうと言うんである.


その理由は「愛執」なんである.


ある対象に快の感情を持っているトキ,ヒトはその快の感情を持ち続けたいと思う.例えば,自分に愛する者があれば,いつまででも愛していたいと願うもんである.しかし「いつまでも変わらぬ状態」を「無常」なるものに求めても,かなわぬ夢である.結局,ソレは不快の感情へと変移しちゃう.


また,ある対象に不快の感情を持っているトキは,その不快の感情を消したい思う.例えば自分に愛する者がいなくて不快感を持つ人が,愛する者の出現を願うよーなコトである.しかし,もしも幸運にも愛する者が出現したとしたトコロで,その後の状況は↑と同じになっちゃうよねえ?


じゃあ,ある対象に快の感情も不快の感情も持っていない場合は? ソレについて欲するトコロがナイわけだけど,「快の感情も不快の感情も持たない」でいる状態そのものも「無常」なんである.その後は「快」か「不快」かのいずれかに移っていく.ナゼなら,あるモノゴトに対する快や不快を初めて知る直前の状態とゆーのは,「快の感情も不快の感情も持たない状態」以外のナニモノでもナイからである.マッタク,スゴイコト言うねえ.


繰り返すが,無常とは「変化しないモノは一切ナイ」というコトである.だから感情の対象となる一切のモノゴトは,無常である.無常なるモノに対する感情をいかに制御するかが,苦しみの増減を握る鍵なんだヨ,と.対象が無常だってコトを知ってるシトは,イタヅラに対象を束縛し,自分のモノであるかのよーな錯覚に陥らぬよーに,心を平静に制御してゆくことがデキるモノだヨ,と.


ところで,日本人ならダレでも知ってる歌に,諸行無常を詠ったモノがある.そう,「いろは歌」.

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔いもせず


ちゃんちゃん,と.ほいじゃ次回は「諸法無我」ってコトで.ばいぶー