仏教思想〜ナーガルジュナ〜

ナーガルジュナの思想は,基本的にはブッダの「縁起」(id:KEN_NAITO:20050608)を発展させたモノである.ブッダの縁起は原因と結果による因果関係(親があって初めて子供があるetc)に重点を置いていたが,ナーガルジュナはソレを更に一般化し,同時に成り立っているもの同士の関係まで含め,それらが相互に依存していることを明らかにした.「存在」を含む全ての現象は,関係性によって成り立っているのだ.現象は関係性によって現れてるんだから,ソレ自身で存在する,現象自体が真実であるという「ユニークな実体」(=自性)はナイってコトである.ぐあー理屈っぽいー


…ま,気を取り直して.
全てのモノゴトはただその相互関係によって現れているだけで,ソコにソレ自体で実在するモノなど何一つナイ,みんな「空」なんだヨ,とナーガルジュナは言う.
一切が「空」だ,なんてゆーと,全てが虚無だとするニヒリズムのように聞こえるカモだけど,そーじゃナイ.「空」と「無」は似てるよーで,マツタク違う.世界を「実在」とする極端説と「虚無」であるとする極端説のどちらからも離れた「中道」をとってるんだヨ.

ナーガルジュナの「空」についての考察は,実はかなーり科学的な思索に基づいている.ワレワレは日常生活において,ソコに見えているモノは実際に存在すると考える.何らかのモノ「α」がソコに存在してて,ソレについて「αがある」という言葉を連想し,ソレがソコにあると認識する.

存在するモノは椅子だったり,机だったり.でも,それらソレらは本当に机なのか?椅子なのか?

顕微鏡的な視点で、ものをどんどん拡大して、極小の構成要素の集まりという姿で見るとき,「椅子」としてあったものはもう椅子ではなくなる.逆にそのものからどんどん遠ざかり,遙か彼方彼方から眺めると,「椅子」はそこから消えてしまう.

「本当にある」と思われているものが,実はワレワレの目に見えるモノの大きさの違いのみで成り立っているにスギナイ.「αがある」ってのは,ソレを見るワレワレとの関係性の上に成り立っているダケだとゆーコトになってくるネ.

何らかのモノ「α」があるとするトキ,ソレは言葉によって定義される.「αがある」のは,何らかのモノ「α」には「α」と呼ばれるべき「α独自の本質」があるからこそ,「α」というコトバが適用されるのだと考えられるだろう.だが実際には「α」の存在は見る者に依存しているのであって,「α独自の本質」なるものは実は存在しない.「α」というコトバが適用されるのは,αを他のものから識別しようとする心のはたらき(分別)があるからスギナイ.これらの事から二つの結論が得られる,とナーガルジュナは言う.

1.「α」は他のモノとの相関関係において成り立っているだけの存在である.

2.「α」なるモノが「ある」と知るのは,「α」なるコトバに基づくモノであって,一切は戯論,すなわち言葉の虚構である.

「α」は「αという言葉」が適用されたモノ,すなわち「考え出されたモノ」であって,真の意味では存在しない.だから「有」じゃナイ.んだけど,ソコに何もナイわけじゃナイ.何もなければ,言葉すら当てはめられナイ.だから「無」でもナイ.有でもなく,無でもナイ.現象する一切のモノは,そのよーなあり方をしている.存在しているが、それ独自の存在を欠いている,つまり空っぽ.「空」である.

すべての事象は「空」を本質とする.ソレは常に何かの表れでしかなく,あらゆる事柄は他の何かとの関わりの中から生まれるダケであって,ソレ自体には本質も意味もナイ,実在しない,それが真実だ,と.その虚構の上に成立している現象世界において判断を働かせ,意味を求め,実在を探したりするから,行為と煩悩が生まれ,結果苦しみを生み出すコトになる.大切なのは「判断」することを中止し,言葉による思考や判断に惑わされず,一切を「空なるモノ」とみなす見方,コレが般若波羅蜜,すなわち「智恵」である,と.

次回,ナーガルジュナの時間論.コレオモチロイ.