仏教:ナーガルジュナ〜時間について〜

マズ「時間」の捉え方については,二通りあるよね.「時計の時間」と,「過去・現在・未来」とゆーカタチの,漠然とした「時」としての時間と.

時間とは何か。他人に問われなければ、わたしは知っている。しかし説明しようとすると、わたしは知らないのである。

時計の時間

結論から言っちゃうと,時計の時間は運動によって定義されている.最初から「秒」「分」「時間」なんて単位があったワケではナイことは,誰でも知ってらーネ.


天体の見かけの回転運動が,あらゆる運動の基準である.天体の回転は誰にでも見えるし,したがって誰もが基準として利用デキる.オマケに安定してるしネ.現在のワレワレが使っている機械時計は,この「天体の運動周期」チョコっと補正を加えて,ソレを生活に便利な程度に分割したモノで,ソレ以上のモノではナイ,とゆーのが実際のトコロである.天体の回転を昼と夜の二つに分けたモノが短針の回転.ソレを生活の必要に合わせてさらに分割したのが長針と秒針なのだ.ワレワレが使っている時計は,よーするに地球の回転運動の分身ってワケだネ.地球上に朝が来て,また次の朝が来るまでを1日=24時間=1440分=86400秒であるとキメツケているダケのコトである.地球だからこーゆー時間の定義になったワケで,別の惑星なら別の時間になるのがトーゼンであろう.んで更に言っちゃうと,地球上でも昼夜を問わない生活リズムがあれば,地球の一回転を一日とする必然性すらナイってコトになる.


でまぁこーやって時計の時間の定義がハッキリさせてみると,全ての時間の長さは相対的に表現されているにスギナイってコトが分かるよネ?例えば100メートルを10秒フラットで駆け抜けたとすれば,その間に地球は10/86400回転してるコトになる.100メートル走るという運動を,地球の回転運動を基準に言い表したワケだ(1秒=地球の1/86400回転).「時間」という概念をなくしても,それに替わる「回転」という基準運動によって,世界が成り立ってしまうとも言えなくはナイ.

過去・現在・未来

とゆーわけで時計が刻む時間の本質は「運動」なワケだが,ワレワレが日頃感じているモヒトツの時間,つまり「過去・現在・未来」に関してはまだナニもワカラナイ.過ぎ去ってしまった「過去」,今知覚している「現在」,それに未だ来ない「未来」とはどんな関連があるのかしらん.そして時間は過去から現在,未来へと流れているモノなのかえ?


上座部仏教の一部にこんな考え方があった.

「コップ」とか「水」とか「猫」とか,存在している物質(物体)はみんな一瞬ごとに生成と消滅を繰り返してるんだと.だから今ワタクシが手に持っているコップは,さっきテーブルの上にあったコップとはベツモノで,さっきソファーに寝ていた猫は,今目の前を通り過ぎた猫とは別の生き物なんだと.
映画のスクリーンに映し出される瞬間の「ヒトコマ」ってカンジかな.巻き取られるリールには,消滅した「存在の要素」が過去に去っただけであり,過去に蓄積されていく.逆に新しいリールには,まだ生じていない未来のコップや猫が生起を待っている.ただその消滅と生気の移り変わりがアマリにも一瞬で行われるために,ワレワレはソレに気付かないダケなのだと.

コレを「刹那滅論」とゆーのだが,コレは確かに過去・現在・未来を通して,同一性を保って存在し続けるモノなど存在しないと考えてはいる.んであるが,この考え方にもその根底には「時間が過去・現在・未来へと続くモノである」という前提がある.

過去や現在や未来という「時」は,たしかにワタクシだけが感じているモノではナイ.大多数のヒトがその存在を疑う余地ナシと信じている.過去はワレワレの記憶の中に確かにあるし,未来はワレワレの記憶の延長上にあるだろうと信じられている.現実にはならなくともヒトが何かを想像する時,殆どのバヤイが「未来」のコトを想像する.そして現在は現前にあるモノを知覚して,ソレが「今・ココ」であるコトをイチイチ疑う必要はナイ.
んだけど,それらは皆我々の「行為」という範疇を越えたモノではナイのである.記憶の中の「過去」は「過去ソノモノ」ではナイ.過去に「ワタクシ」が「知覚」した「デキゴト」にスギナイ.現在もまた,ワタクシが現前にあるモノ・コトを知覚して初めて「今」が成り立つ.全ての知覚が無くなれば――死とか――「今」は成立し得ない.まだ生き残っている人間にのみ,ワタクシの死後も「今」が成り立つ.つまり「時間」は「ワタクシ」や「ワタクシの行為あるいは知覚」を離れて存在するコトはデキナイのだ.そして「ワタクシ」も「ワタクシの行為」も所詮は「空」なる存在である.とゆーコトは,ソレらに依って存在している「時間」もまた「空」なんである.


時間は人間によってつくられたモノにスギナイ.にもかかわらず,いつしかつくった人間がそのコトを忘れてしまい,あたかも時間に絶対者のよーな地位を与えてしまった.時間の中を人間が生きているのではナイ.生きている人間の知覚や記憶の中にしか,時間はナイのだ.


時は存在者ではナイ――


ソレが,ナーガルジュナの(理屈っぽい)結論である.でもこのオッサン,二世紀のヒトだよ?1800年も前によくもまーこんな相対論的な時間の概念に辿り着いたモンである.ギョーガク.


次回,ナーガルジュナの「言葉論」.コレも病み付きなっちゃいそーなワタクシ.まるでウィトゲンシュタイン