実体の否定byラッセル

『実体』という概念は、真面目に考えれば様々な難点から自由ではあり得ない概念である。実体とは、諸性質の主語となるもので、その全ての性質から区別される何物かである、と考えられている。しかし諸性質を取り去ってみて、実体そのものを想像しようと試みると、我々はそこに何も残ってないことを見出すのである。
・・・実際には「実体」とは、様々な出来事を束にして集める便宜的方法に過ぎない。・・・それは、その諸生起が引っかかっているはずの単なる空想上の吊り鉤に過ぎないのである。地球がそれを支える象を必要としないように、それらの諸生起も実際には吊り鉤を必要としてはいない。地理的な地域という類似の事例にあっては、例えば『フランス』というような語が単なる言語的便宜であり、その地域の様々な部分を超越して『フランス』と呼ばれるような事物は存在しない、ということは誰にだって了解できるのである。同じことが、『スミス氏』にも当てはまる。それは、多数の出来事に対する一つの集合的な名称なのである。もし我々が、『スミス氏』をそれ以上のものだと解釈すれば、それは全く知り得ない何物かを指示することになり、いずれにせよ我々の知っていることの表現には、その何物かは必要ではなくなるのである。一言にしていえば、『実体』という概念は形而上学的な誤謬であり、主語と述語とからなる文章の構造を、世界の構造にまで移行させたことにその原因がある。


この文章を受けて「本当の自分」なるものは存在しないって文章を書こうと思ってたんだけど、いかんせん今日は時間がなかった。また明日、もしくは来週〜

…続く。