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ワタクシは、確かに、自分の人生を物語化する思考に嵌っていた。将来を期待された若者が、不慮の事故や病気で死ぬ。そして皆がその死を惜しみ、悲しみ、泣くシーンで幕となる――何とも、陳腐な物語だ。悲劇的な結末で終わる物語は、確かに観衆の感動や共感を呼ぶかも知れない。しかし当たり前だが、悲劇的な結末は「幸福に死を迎える」こととは対極にある。解答としては論外だ。


人は、どうしても自分が主人公になった物語を思い描いてしまう。物語を見て感激したり興奮したりするのは大いに結構だが、自らの人生を物語化して捉えることは、所詮自分を「英雄的な主人公」とか「可哀想な主人公」に当てはめて、単に酔いしれるためでしかないと言えるだろう。
だが物語はあくまでも物語であって、人生ではない。それは物語が主要なテーマに沿ってストーリーを進めていかざるを得ないからだ。つまり物語は、人生における膨大な出来事をほとんど省略してしまうのだ。


村上龍は、物語には「主人公が穴に落ちる」「主人公が穴から這い上がる」「主人公が穴の中で死ぬ」という三つのパターンしかないと言った。どれほどディテールが描きこまれていても、所詮物語というのはその程度でしかないということだ。自殺する若者のほとんどは「穴の中で死ぬ」パターンだろう。


誰にも愛されず、誰からも必要とされず、孤独の中でひっそりと死んでいく――


それが、彼らが自らを主人公にして描く物語の形だ。人生は、そうは行かない。人生のほとんどは、物語性から外れるような出来事ばかりだからだ。だが人間は、それらのうち僅かの物事だけに価値を置き、自らが主人公を演じるドラマの材料にしてしまう。それは言語を背負った生き物としての宿命なのかも知れない。だが悲劇的な物語は、死神を呼ぶ。しかし、ならば悲劇的ではない物語、というのはどうだろう。そう思った瞬間、ある言葉を思い出して、これだと思った。

さあ、拍手しろ。喜劇は終わりだ――


ベートーヴェンが遺した、最期の言葉だ。


・・・つづく