その68 歴史の慰め

まずはラッセルを引用。

 子供は自分が不幸な間は、視界全体が現在の悲惨事で一杯になり、自分の過去と未来の人生は霧にかすんでしまう。しかし成人するにつれて、たとえば歯が痛くなってもそれは永久に続かないという体験を想起する能力を持つようになる。我々は、自分の過去の経験から引き出すこの種の慰めと同じものを、もっと大規模に人類の過去の歴史から引き出すことができるだろう。
今日の世界の状態はかなり悪いため、歴史の知識のない人間は、容易に、過去にこれほど酷い時代はなかっただろう思いがちである。このような見方は、我々を絶望と無感動に導く。


何年か前に就職難が叫ばれた時期とか、あの頃に就職活動をしていた僕の同期は口々に「今ほど就職が厳しい時代はない」とか言ってたけれど、世界恐慌の時代とか、もっと前の子供が低賃金で過酷な労働を強いられていた時期とか、そんな頃に比べれば今の時代が全然不幸ではないことに気づく。別に何のことはない、人は今自分が生きている時代を「特別な時代」だと捉えてしまいやすいため、今を「最高の時代」か、そうでなければ「最悪の時代」だと決め付けがちであるというだけのことに過ぎない。


これは、時代がどうこう、というだけでなく、個人の生活においても大いに当てはまるだろう。大きな失恋とか、身内の死とか、人は大きな不幸に見舞われると「自分ほど不幸な人間はいない」とばかりに狭い世界に閉じこもる。しかし実際に世間を見渡せば、彼(彼女)と同様、あるいはそれ以上の不幸に見舞われた経験を持ちながら、今は至って普通に生活しているような人は幾らでもいるであろう。大きな不幸を乗り越えた人、というのはその人が異常にタフだからとか強いからとかいうわけではない。単に、人間だからである。


「もう自分の人生なんて終わりだ」と思わせるほどの大きな不幸であっても、人はそれを乗り越えることができるものだ。大切なことは、どんな不幸な状態にも、必ず終わりがあることを知り、それを自らに言い聞かせることだ。それができれば、必要以上に落ち込むことはなく、必要以上に生きる気力が奪われることもなくなるだろう。
逆に、「こんな状態がいつまで続くの」とか「何で私がこんな目に会わなければいけないの」などの「悲劇の主人公」的な嘆きは、更なる不幸を呼び込む、と断言してもいいだろう。