月曜日

論文も書類も切羽詰まった状態だけど、とりあえずは同僚や共同研究社の仕事待ちの状態なのでぽっかり時間ができてしまった。

新年はアメリカ出張に始まり、その翌週から講演依頼4連発。講演時間40分〜1時間、しかも4つともがそれぞれ微妙に趣旨も客層も違っていたので、一回一回がぶっつけ本番だった。忙し過ぎてハゲるかと思った。

そしてそんな多忙な間に継続申請を出していた予算は打ち切られ、ライバルチームに論文を先に出されてしまうという結構散々な目に遭ったりしている。ハゲたかと思った。

今は気を取り直して一矢報いるための論文と、新規課題としての新たな申請書を書く。もうひとつ抱えたまま後回しにしていた論文があって、それは執筆準備のために論文やレビュー記事を読み漁り始めたところ。一度に抱えられる仕事は3つくらいが限界だしね。どこかの柿野郎みたいなマネはできない。

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で、論文を出されてからじゃ負け惜しみにしかならないんだけど。

ポスドクの頃から、何のために論文を書くのかを凄く考えるようになった。そりゃ若いうちは論文を書いて出さない限りは職も得られないし研究資金も取れないし、つまり研究者として生きていくには必須事項なわけだけど、でももう少し広い視点でもって考えるなら、そんなことどうだっていいんだよね。人類の進歩とか科学の発展とかに、僕がちょっといい雑誌に論文を出して職を得られようが、ハズレばっかでこの世界から消えていこうが、どっちだって構わない。
 でも研究者は結局いろんなエゴから自由にはなれないし、生存競争も激化してる。そうすると、何か無理矢理出したみたいな論文も量産されちゃう。でもそんな論文じゃ結局大した意味もなくて、個人が生き残るために時間と金を食い潰しただけみたいなことになってしまう。
 だから、少なくとも僕はそういう流れには絶対流されないようにしたいと、帰国してくる前に思ったのだった。僕がやる仕事で、誰かが「お陰で私達の仕事も捗ります」と思ってくれる。僕らが書いた論文を読んで、誰かが「これは面白い!」と思ってくれる。そういう研究をして、そういう論文を書くんじゃなけりゃ、別の生き方をした方がマシじゃないかと。
 逆に研究者といして生きるんなら、自分がやってる研究にどんな意義や価値があるのか、考えてなきゃいけないんだろう。論文を投稿するときも、参考にすべきはインパクトファクターなんかじゃなくて、どんな人にとってその論文を読む価値があるのか、をまず第一に考えるべきなんだな。