その4〜理性の役割〜

 本能と理性の対立は、常に哲学上の問題になる。十八世紀には理性を優先させ、ルソーと浪漫主義運動は本能を優越させた。ベルグソンは「直観」の名の下に、本能を形而上学的論理の唯一の媒介者たる地位に昇格させた。実際には、本能と理性との対立という観念は、大部分架空のものである。---バートランド=ラッセ

慎み深く,誘惑を排し,善を施す,克己的精神に満ち溢れた道徳的人物を「理性的」と思っているヒトは多い.正しくは「倫理的」だヨ.倫理的な行為に理性は介在するけれど,そのような行動の原因は理性そのものではナイ.倫理的行動を支配するのは,自分が所属する共同体から除け者にされはしないかという恐怖心,あるいは他人の尊敬を買いたいという自尊心である.つまり感情の一種なのダ.理性は自分本位の衝動(オナカイッパイ食べたい,イイオンナとセックスしたいetc)と,社会的な衝動とを調整しているに過ぎナイ.

ラッセルは言う(なんだかラッセル紹介のためのブログっぽくなってきたナ…)

「理性」の完全に明白で正確な意味は、(理性は)われわれが達成したいと思う目的に対し正しい手段を選ばせることにある。

また,イギリスの経験主義者ヒューム

理性は情熱の奴隷であり、またそれにとどまるべきである

とか.よーするに行動の原動力となるのは,あくまでも欲望や情熱なんである.理性の役割はそれらを調整するコト.だから「理性⇔感情」という図式は成り立たナイ.
ラッセルの言葉はホントに使えるなあ,と思いつつ更に引用.

 理性は、創造的な力というよりも調和・統制する力である。理性は、われわれの諸信念が相互に両立しうるかどうかを検討し、疑わしい場合にいずれかの側に有りうる誤りの源を確かめる調和的媒介者である。この場合、理性は本能全体に全く対立せず、ただ、本能が関心を抱く一側面のみを盲目的に信頼したり、他の諸側面を無視したりすることに対立するのである。理性が誤りを正そうとする力は、本能のもつ一面性に向けられ、本能それ自体(本能全体)には向けられていない。

ある人がブチキレて,腹立ちまぎれに自分に損な事をすれば,その人は不合理だと言われる.その時彼は,遙かに重要な他の欲望を犠牲にしているため,不合理なのダ.理性的な考え方とは、その時の偶然に一番強い欲望にだけ左右されるんじゃなくて,「自分が持つすべての欲望を思い出す習慣」のことだと考えてよいと思う.

要するに

最大の幸福は自分の様々な能力を完全に発揮する

ことを達成するために理性を使うのが,幸福への道.それだけが幸福ってワケじゃないけど,それはまた今度.


とゆーわけで,日本語クラス行ってきます!!