火曜日

京大の新総長がいいこと言ってた。

研究者は、通常英語の論文をたくさん書きます。これは必要だけれども、もっと日本の社会に向かって語りかけていくことをしないといけない。そうしないと、日本の社会にいる人たちには、研究者が何をしているか分からないわけです。それでは日本の国民から税金をもらってその援助を受けながら、仕事をしている責任を取れません。
 我々の時代は、日本語でとにかく自分の一番新しいフィールド経験を書きまくりました。また、当時いろいろな日本語の科学雑誌があって、私たちの活動を伝えてくれました。それが今なくなってしまったことに非常に私は危機感を感じています。
 学生たちに言うのですが、研究、特にフィールドワークというのは、個人のやる仕事だけど、みんなで考え、そしてそれを分かってもらうようなことをしないと、オタクの仕事になってしまう。研究者は限りなくオタク的な発想を持っているけど、オタクであり続けたら研究者にならないわけです。研究者として一人前になるためには、それを世間の人たちに分かってもらわなくてはいけない。それが今一番足りないところだと思います。

前の総長はエリート主義の塊だったから大嫌いだったんだけど、今度の人は「あの人が総長になったら日本の類人猿研究が大きく遅れる」という理由で落選運動が起こったというだけのことはあるようだ。世間一般とも、不特定多数とも、ちょっと違った角度から物を言ってる。日本の学会でさえ、英語化が進められようとしているくらいだから。

にしても、それこそ学会はフリーペーパー的な広報誌を作るべきなのかな。いや、それだけじゃダメだよなー。ウチも含めてそれぞれの研究機関は一般向けニュースレターを発行したり公開したりしてるけど、一体何人が目を通してくれてるのか。いや、日本人の99.9%はそんなものの存在さえ知らないんじゃないか。不特定多数にどーんと届くメッセージ。そんなことは出来ないだろうか。

これまでも一般向けに3回ほどセミナーとかサイエンスカフェとかで喋ってきたけど、3回全部合わせて僕の話を聞いた人って何人くらいいるだろう。100人に足りる? いずれにせよ、そんなんじゃ全然足りないか。iPS細胞ほど物凄い発見・発明じゃなくても、へえ!とか、ほう!とか思ってもらえるサイエンス。そんな風にはできないものか。

水曜日

何と、9月はブログを更新しないままに終わってしまった。。。1周間の休暇をとって嫁と北海道旅行をして、遺伝学会に出て、そして育種学会に出た。そんな9月。

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今年の遺伝学会のハイライトは何と言っても角谷先生の受賞講演だったな。エピジェネの先駆者だもの。驚くべきは角谷ラボ出身の面々。ほとんど全員が今や有名人。ほんとに凄い人だ。

でも、角谷先生の後は追わない。角谷先生が旋風を起こしたお陰で、今エピジェネは遺伝学会でいちばんメジャーな研究分野だ。でも、そういう分野ではもう旋風は起こせない。僕がやらなくても、放っとけば絶対誰かがやっちゃう分野に対してはモチベーションが湧いてこない。やっぱり、「オレがやらなきゃ誰がやる!」ってモノじゃなきゃ。自分の旗印を掲げなくては。

あとは自分の発表も大ウケだったし、ちょっとした会話が共同研究へ急展開したりと、実り多き学会ではあった。あと滋賀県長浜市にはうまいもんがいっぱいあった。

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育種学会は宮崎県都城市という恐ろしくアクセスの悪いところにあったけど、いいとこだった。地鶏うまかったし。

この学会は本当に忙しかった。一日目は座長とワークショップの主催、二日目は男女共同参画のランチョンセミナーと口頭発表。いわゆる出ずっぱり。

それにしても、男女共同参画となると、研究と子育ての両立という単一モデルが正義だ、という結論に至るのがありがちですね。そして多くの女性研究者がそうなれるにはどんな環境が必要なのか、という話になる。でもそんな状況が整うのを待っているうちに、僕ら歳取っちゃうじゃん。理想を掲げるのは勝手だけど、じゃあその理想に届いてない人々は、現在の境遇に不満を抱かなければならないのだろうか。いやいやいやいや、現状で十分、吾唯足るを知るという考え方・生き方を取る道だってあるだろう!

というわけで僕は今回爆弾を落としてみた。研究のために出産を諦めて何が悪い!というメッセージを声を大にして叫んでみた。幸福とは何か、愛とは何か、という哲学者の言葉を引用しながら。

結果、若い層にはウケたが、もう一人の講演者と主催者には大顰蹙だったな。とにもかくにも、多くの人には今まで考えてもみなかったようなことを考えさせる機会になったはず。

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そう言えば僕は嫁との生活について話しているときに、年配の人からよく言われる。

「今がいちばん楽しいときね」

と。結婚前も。結婚後も。その言葉には毒がある。「そのうちそんなこと言ってられなくなるから」という。

でも僕たちはそういう言葉に対して心のなかでそっと言い返す。

あなた方がハマってきた罠に、どうやったらハマらずに済むのかを考えながら生きてるんですよ、僕たちは、と。

月曜日

弾丸トラベルも終わって、よーやく落ち着いてPCに向かう時間が取れるようになった。先週京大の生態学研究センターでディスカッションが出来たおかげで、書きかけていた論文の路線変更。ディスカッションの重点が大きく変わってしまうので、そうなると結局イントロから書き直しである。この週末と、今日丸一日掛けて、ほぼ書き直した。いや、論旨がスッキリしそうな予感はあったのだけど、ほんとにスッキリした。ウチの超が付くほど優秀な秘書さんにあらすじを説明してみたら、「えっ、すごい!何か鳥肌立っちゃった」と言われた。サイエンティフィックにはそれほど重要な発見は含まれていないのだけど、ストーリーとしては何だか壮大になっちゃうからね。そんな論文を、果たしてエディターやレビューアーはどう評価してくれるのか。。。

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アズキゲノムがいよいよ最終フェイズに入った。ということで、論文のイントロなどをそろそろ準備し始めねばなるまい。

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今のポストが今年度いっぱいなので、いちおう就職活動の書類を書いている。で、この5年間の自分の経験をアピールする文章を考えていたのだけども、

私はこの5年間を、「PIになるための準備期間」と捉えて研究活動に励んできました。PIとはPrincipal Investigator、つまり研究代表者あるいはグループリーダーを意味します。私はPIへのステップとして、任期付研究員としての5年間の間に2つのことを自分に課してきました。それは「研究費を獲得して人を雇い、1つの研究チームを作り上げること」および「外部の研究者と共同研究を行い、自分たちの能力や設備の限界を超えた研究を行うこと」です。
 私には夢があります。それは私一人では到底達成できないことであり、どれだけ多くの人の協力を得られるかに掛かっています。したがって、私にとってこの5年間は、私自身に人を動かすことができるのかどうかを試すための5年間だったと言えます。

という書き出しはどうだろう。結構気に入ってるんだけども。

火曜日

ホッと落ち着いてみれば7月もほぼ終わりである。いや、実際のところ落ち着いているわけではないが。

今月はほんとに怒涛のロードだった。しかしそんなことを言ってるうちに、今週の金曜は京大の生態学研究センターへ、週明け月曜には岡山大、火曜に昭和薬科大、とまたもや続々と予定が埋まっていってしまう。まあ、予定の半分は自分から埋めていってしまっている、とりあえず今は頼まれたものは全部引き受けてるからなぁ。力を貸してくれる人は、どこにいるか分からないから。

抱えるものが大きくなっている分、問題はあちこちで起こる。でも同時に、吉報もあちこちから届く。そんなもんでいいんだろうと思う。

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先々週、今月2度目の沖縄訪問。羽田から乗った飛行機には、偶然にも訪問先のチームリーダーも同乗していた。おや、偶然ですね、と挨拶しているうちに、

「明日時間があるなら県庁に行きませんか」

と言われる。僕らの研究には是非とも協力したいけど、我々は県の研究所なので、県庁の理解が必要だからと。その通りですねと同意。那覇に到着後、リーダーさんはさっさと行ってしまった。僕は空港で昼を食べてからレンタカーを借り、うるま市の研究所に向かう。距離にして30kmほどなのだが、思っていた以上に沖縄本島は車が多くて、あちこち渋滞している。1時間半掛けてようやく到着。駐車場に車を停めると、訪問先の秘書さんから電話が。

「県庁のアポが急に取れたということで、リーダーは県庁に向かいました。内藤さんにも至急県庁に向かって欲しいということです。」

え…??…って、今ですか!?

「はい、、、そうなんです」

ウソでしょ!?今まさに研究所に着いたところなんですけど!!県庁って那覇ですよね!?まさかの、今来た道を引き返せ、ですか!!

あまりに可笑しくて言いながら爆笑してしまった。何となく思ってたけど、あのおっさん、思い付いてから行動起こすまでのタイムラグが無さ過ぎる。自分が走り出してから「何やってんだ、早く従いてこいよ」ってタイプだ。責めて、言ってから走ってくれれば、周囲は随分ラクになると思うんだけど。

ということで、本当に今来た道を再び1時間半掛けて引き返し、見るからに立派な県庁ビルに入る。企画部長とか、実際に結構偉い人に顔を通してもらって、沖縄にもこんな植物が生えているんですよ、その研究のため、ご支援のほどお願いしますと頭を下げる。意義はすぐに分かってもらえたっぽいし、沖縄県からのゴーサインはもらえたと解釈した。

県庁では話が終わると、今度こそ訪問先の研究所へ。。。とはならず、直接食事会の会場へ。といっても、研究所の近くだったので、結局さっき往復した道のほとんどをもう一回走ることになるわけで。「もう何度目なんだよ、この風景!この看板!」とならざるを得ないわけで。しかも、訪問先でセミナーをしてそれなりにお互い話し合ってから食事会、ってなる予定だったのが、研究所のほとんどの人とお店で初顔合わせですよ。合コンか、っていうか、実際合コンみたいなノリの食事会になってしまった。向こうはみんな若かったし。

ホテルに一泊して、二日目、ようやく研究所の人たちに、僕がどういう問題意識を持っているか、なぜアズキなんかやってるのか、そしてこの沖縄に生えるアズキのなかまにどんな魅力があるのか、という話をすることができた。確かに、僕らがDNAを送り、その解析データを返してもらえれば、それで共同研究は成立する。でもやっぱり送られてきたDNAがどんな植物のDNAなのか、あるいはそもそもDNAを送ってくるのがどんな人間なのかを、共同研究者には絶対に知ってもらっておいた方がいい、というのが僕の信念なわけで。しかも、図らずもそれを沖縄県庁に対しても出来たわけだから、この旅の意義は大きかったと思う。

すごい勢いで振り回されたけど(笑)

今月はどんだけ移動するんだってくらい移動が激しい。

3日に石垣島、4〜7日が宮古島で野生種の探索をし、台風に巻き込まれる直前に帰ってきた。去年は与那国島で直撃を受けて二日間足止めを食らってしまったもんなあ。当時も20年ぶりだかの超大型台風だったけど、今回のは観測史上最強の台風とか言ってるし、巻き込まれてたら笑うしかなかったもんな。探索期間中の天候は憎らしいほどの晴天で、夜は星も海ほたるもよく見えた。今回の探索では見慣れていたはずの野生種の違った一面が見えたりしてちょっと興奮した。

10日に東京で打合せをしてシーケンサーの無料利用権をゲットし、11日は千葉に出向いてちょっと特別な機械を借りてきた。←今ココ

これでまだ折り返し地点。

14・15日が再び沖縄で、今度は本島で共同研究者と初対面&打合せ、16日に東京でセミナー、18・19日に名古屋で別の共同研究の打合せ。そして23〜25日に岩手でワークショップ。。。どこでもドア、プリーズ!!

それでも論文が1つ、ほぼ体裁も整い、あとは共著者の担当分が書き上がるのを待つばかり。二つ準備しなきゃいけないプレゼンのうち、1つはできた。残り1つが骨だけどな。。。

あと、移動が多い分、本は読める。

なかなか面白かった。清少納言紫式部の対立の背景とか、何となく知ってたけど詳しくは全然知らんかったことがよく分かるストーリーになっている。あとは何と言っても平安貴族の美意識とか、そういうのもうまく描かれてるなーと思いつつ読んだ。隆家かっこよすぎ。


ラッシュライフ (新潮文庫)

ラッシュライフ (新潮文庫)

伊坂幸太郎おもろいなー!次、何読もう

楽園のカンヴァス (新潮文庫)

楽園のカンヴァス (新潮文庫)

まだ2割ほどしか読んでないけど、これ、おもろいわ!美術好きにオススメしたい。

月曜日

何と6月は1度しか更新していなかった。。。いやー、先月の申請書で本当に燃え尽きてしまったのだな。燃え尽きている中でもう一つ申請書を書き上げなきゃいかなかったので、気力も底を突いてしまったのだな。どうしてもテンションの上がらないままさきがけの領域会議に突入してしまい、いつも大人気のはずの僕のプレゼンも「今回は何か勢いなかったね。もっと期待してたのに」的なことを言われる始末であった。非難されたわけではなかったけども。

んで、今日二つ目の申請書がほぼ完成したのだが、これで一気に気が楽になった。止まり掛けていた論文も夕方から一気に仕上げられたし、7月に控えている講演2本もやる気満々。おもろいの作ったろ。

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先日嫁と話していたときのこと。

嫁のラボの院生募集の面接に、50を超えたオバサマが応募して来た。オバサマといってもどこぞの大学の看護学科の准教授である。看護学の世界はまだ若いというか、教員の学位取得率はかなり低い。このオバサマも例外ではなく、学位が取りたいのでもう一度大学院に入り直したいということらしい。しかし歳も立場も上の人を指導するなんてやりにくそうやし、しかも一度どこかの大学の博士課程に進学していながら、結局一報も論文を書かずに単位取得退学をしている。断りたいけどどうしようかなと思いつつ会ってみたところ、嫁の地雷を幾つも踏んでくれたらしく、嫁が逆上して終了。断りましたと。

問「どうしてこのラボを希望されるのでしょうか」
答「テーマに拘りはありません。国立大で学位が欲しいと思いまして」

地雷一つ目、起爆。

問「へ!?…なぜ、国立大がいいのでしょうか」
答「どうしてでしょうね…やっぱり安いからでしょうか」

地雷二つ目、起爆。

問「何か聞きたいことはありますか」
答「先生は英語の論文を沢山お持ちですけど、日本語では論文を書かれないのですか?」
問「はい?」
答「英語で論文なんか書いても、現場の看護師には読めないじゃないですか。」

地雷三つ目。嫁、プッチーン。

「あなたのような方には来て頂きたくありませんっ!!」

…という話。そうかぁ、全然あかんな、その人(苦笑)。けど、英語で論文書いても現場は読めないっていうのは一理ある気がするなぁ。だからって論文は日本語で書くべきやとは思わんけども。

と言った僕に対して、嫁は言う。

「そうやろ?だからアタシ、自分の論文は全部日本語にしてWebで公開してるんやで!イラストを使った簡易版まで作ってるもん」

え、マジで!?

「そーやで。だって折角研究して明らかになった事実があっても、それが現場に還元されへんかったら意味ないやんか」

偉い!見直した!いや、アンタ凄いな!いや〜、今日はほんまに見直したで!!

…というお話でした。

火曜日

考えたいことが多過ぎて頭が飽和してしまったので久々にブログでも書いておこう(笑)

もう3年も前だろうか。ウチのラボに3ヶ月だけ中国人が研修に来て、先輩がテーマを与えて実験してた。当時は自分のやってた実験が燃えに燃えていたのであまり気に掛けていなかった。で、去年だったか。上司が出張で中国に行った時にその中国人に会って「あのときの実験結果はいつ論文になるのですか」と聞かれた、みたいな話を先輩と話しているのを聞いて、ふと興味が湧いた。あのときの実験ってどんなんだったんですか、と。
 で、データを見せて貰った。まず、僕がここに来る前に行われていた研究があって、その結果から興味深い仮説を立てていたので、中国人にはその仮説を検証するための実験をやってもらったようだ。ところが、結果は仮説の真逆。しかもその真逆の結果から導かれる仮説が予想外過ぎて驚いた。そんなことってあるんか、と。人類にとって恐らく何の役にも立たないだろうけど、こんな現象が本当にアズキで起こってるってんなら、それは是非論文にして世間に公表しておかねばなるまい。
 しかしデータがこれだけじゃなぁ。。。仮説だけで終わってしまう。反論の余地がないほどの決定的な証拠を得るにはどうすれば?え、細胞生物学?あ、僕、それが得意なヤツ知ってます!
 というわけで千葉大の知り合いに連絡を取る。かくかくしかじかで、意味が分からんけど面白いと思うので、手を貸してくれ!

…というのがハマりにハマッて、あっという間に論文に見合うデータが揃ってしまった。

もひとつの論文は、とりあえず生物研の任期付として過ごした5年間の集大成にはなるんだろうなぁ。本気の論文は、その次に出すヤツになるはずだけど。

とにもかくにも、今年はブワーッと書いてしまう。今まで4年掛けて撒いてきたタネが芽吹いて花を咲かせつつあるってわけです。理事長からは「早く論文を出さないと」とか言われてたりしたけど、僕はこの任期付としての5年間を「Principle Investigator」になるための準備期間と位置付けるつもりだったわけで。自分でお金を獲り、人を雇って研究させることができるかどうか。そして他所の研究者と共同研究チームを作って成功させることができるかどうか。5年の間にもしそれが出来たなら、僕は多分、僕が考えるところの良きPIになれるだろうと思ってやってきたわけだけど、とりあえずその通過地点はクリア出来そうだな。

とりあえず、明日からまた一つ一つ整理して片付けていこう。